インド最初期仏教 覚え書き 備忘録

現上座仏教教団(スリランカ タイ ミャンマー等)が保持するパーリ語経典からの引用を中心にした仏教紹介。

仏教で言う「人間が得る欲の危難(障害、煩わしさ)」とは何か?四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART3[次第説法36 欲の欠点、危難]

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前回の続きです。
パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta)片山一良訳 大蔵出版 P237から引用

 

欲(kaama)の危難 (障害、煩わしさ)

 

「つぎに、比丘たちよ、もろもろの欲の危難(障害、煩わしさ)とは何か?

 

比丘たちよ、ここに善家の息子は技術によって、たとえば指算によって、もしく計算によって、もしくは目算によって、もしくは耕作によって、もしくは商売によって、もしくは牧牛によって、もしくは弓術によって、もしくは王臣の務めによって、もしくはその他の技術によって生活を営み、

 

寒さを前面にし、暑さを前面にし、蚊や、風や熱、蛇類に触れて害され、飢渇(きかつ)によってに瀕します。

 

比丘たちよ、これがもろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです。

 

前回は、「人間が得る欲の楽味、楽しみ」とは=眼、耳、鼻、舌、身に入った情報から起こる楽しさ、嬉しさ、喜びであることをご紹介しました。
今回はそこから同時に起こる欲の危難(障害、煩わしさ)についてのお話です。

 

普通の国民であるならば、生活するため、家族を養うため、余暇を楽しむため『何らかの仕事をするなど、とにかく働かなくてはならない』というお話です。

 

日々の仕事のために真冬でも真夏でも、天候や環境、あるいは自分の体調がたとえ悪くても、我慢して基本的に家から出なければならず、

 

働かず、仮に何もしないのならば、生活できず、餓死してしまうという危機に瀕してしまうという事のようです。

 

確かにそのとおりで、人間が生き、時に余暇を楽しむため=眼、耳、鼻、舌、身に入った情報から喜びを得るためには、普通、誰でも「日々いやおうなしに働かなくてはならない」という苦労、危難(障害、煩わしさaadiinava)が同時に必ず付きまとうというお話です。
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比丘たちよ、その善家の息子に、もしもそのように奮起し、励み、努力しながら、それらの財が得られないなら、かれは悲しみ、疲れ、突き、胸を打って泣き、愚痴(ぐち)にいたります。 
『私の奮起は何と虚しいことか。 私の努力は何と実りがないことか』と
比丘たちよ、これもまた、もろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです。

 

そうして日々努力して仕事をしても、思ったより収入が少なかった、事業が失敗して収入が得られなかったならば、思わず嘆きの言葉が口から出てしまうということも欲を追い求める際のリスク、マイナス面、苦労、危難(障害、煩わしさaadiinava)の一つのようです。
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比丘たちよ、その善家の息子に、もしもそのように奮起し、励み、努力して、それらの財が得られるなら、かれはそれらの財を守ろうとするために、苦(dukkha)・憂いを受けます。

 

どのようなことをしても、私の財は、王たちに奪われることがあってはならない。賊たちに奪われることがあってはならない。火に焼かれることがあってはならない。 水に運ばれることがあってはならない。愛さない後継者たちに奪われることがあってはならない』と。

 

そのようにかれが守り、護りながら、それらの財を、王たちが奪ったり、賊たちが奪ったり、火が焼いたり、水が運んだり、愛さない後継者たちが奪ったりするなら、かれは悲しみ、疲れ、嘆き、胸を打って泣き、愚痴(ぐち)にいたります。 

 

『私に生じたものも、今や何もない』 と。 
比丘たちよ、これもまた、もろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです」

 

確かに今度は仕事が順調、事業が成功して、お金を得てもそれを管理するという煩わしさの問題が出てくるようです。

 

稼いだお金を国に税金として持っていかれる。盗賊に盗まれる。火事になって燃えてしまう。自然災害、地震、洪水で紛失してしまう。
遺産相続で苦肉の争いが起こる。渡したくない相手に財産を持っていかれること等々。

 

確かに人間が生活をし、時に余暇を楽しむため=眼、耳、鼻、舌、身に入った情報から喜びを得るためには、煩わしいリスクを同時に受けなければならないという事のようです。

 

次回も欲の危難(障害、煩わしさ)の話が続きます。

 

全訳
パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta)片山一良訳 大蔵出版 P237から引用

 

欲(kaama)の危難( 障害、煩わしさaadiinava)

 

「つぎに、比丘たちよ、もろもろの欲の危難( 障害、煩わしさ)とは何か?

 

比丘たちよ、ここに善家の息子は技術によって、たとえば指算によって、もしく計算によって、もしくは目算によって、もしくは耕作によって、もしくは商売によって、もしくは牧牛によって、もしくは弓術によって、もしくは王臣の務めによって、もしくはその他の技術によって生活を営み、

 

寒さを前面にし、暑さを前面にし、蚊や、風や熱、蛇類に触れて害され、飢渇(きかつ)によって死に瀕します。

 

比丘たちよ、これがもろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです。

 

比丘たちよ、その善家の息子に、もしもそのように奮起し、励み、努力しながら、それらの財が得られないなら、かれは悲しみ、疲れ、突き、胸を打って泣き、愚痴(ぐち)にいたります。
『私の奮起は何と虚しいことか。 私の努力は何と実りがないことか』と。


比丘たちよ、これもまた、もろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです。

 

比丘たちよ、その善家の息子に、もしもそのように奮起し、励み、努力して、それらの財が得られるなら、かれはそれらの財を守ろうとするために、苦(dukkha)・憂いを受けます。

 

『どのようなことをしても、私の財は、王たちに奪われることがあってはならない。賊たちに奪われることがあってはならない。火に焼かれることがあってはならない。 水に運ばれることがあってはならない。愛さない後継者たちに奪われることがあってはならない』と。

 

そのようにかれが守り、護りながら、それらの財を、王たちが奪ったり、賊たちが奪ったり、火が焼いたり、水が運んだり、愛さない後継者たちが奪ったりするなら、かれは悲しみ、疲れ、嘆き、胸を打って泣き、愚痴(ぐち)にいたります。

 

『私に生じたものも、今や何もない』 と。

 

 比丘たちよ、これもまた、もろもろの欲の危難です。現に見られる、苦(dukkha)の集まりであり、欲を因とし、欲を基とし、欲を根拠とするもの、すなわち、もろもろの欲を因(原因)とするものです」